2013年11月27日水曜日

推古朝をたずねて~近つ飛鳥博物館れきしウォーク~

だいぶ前のこととなってしまいましたが・・・;
11月4日(月)に、近つ飛鳥博物館の秋季特別展
「考古学からみた推古朝」関連行事のれきしウォーク
「大和飛鳥に推古朝を求めて」に参加しました。

朝方まで降っていた雨がかろうじて上がって良かったです。



午前10時に近鉄岡寺駅に集合して、まず向かったのは
岡寺駅から歩いて5分位のところにある
五条野(見瀬)丸山古墳

現在わかっているうちで日本最大の横穴式石室を持つ
古墳であり、最後の巨大前方後円墳とも言われます。


6世紀後半 国史跡
前方後円墳(全長:318m・後円部径:150m) 
三段築成 
 


広い周庭帯(周庭帯を含めた全長:約420m)



前方部より畝傍山を望む




後円部のみ 畝傍陵墓参考地
円墳という認識だったらしい
 


この辺りが石室の入口らしい
石室全長:28.4m















この古墳は陵墓参考地で立ち入りが出来ないにもかかわらず、
中の石室がわかっていることで有名です。

1991(平成3)年に陵墓参考地に囲われていない所に開いた穴から
石室に入った親子の撮った写真が公開され、後に宮内庁による
調査が行われて石室の全貌が明らかになりました。

石室がかなり大きなものであり、家型石棺(刳抜式・竜山石製)が
二つあることも古くから知られていましたが、この石棺の位置が
物議を醸しています。

奥の方が新しいとされる形の石棺で手前が古い形です。
(家型石棺の上部分が狭い方が古い形)。

入れ替えたんやな、と思ったら、いくら日本最大とはいえ石室内で
石棺を入れ替えるのはなかなか困難そうです。

よそに納めていた古い石棺を合葬するために持ってきた、という方が
私はすんなり納得できますが、本当の所はどうなのでしょう。

この問題は、この古墳の被葬者が誰かということにつながっています。

日本最大の横穴式石室があるこの古墳が天皇陵でない訳がなく、
612年に妃の堅塩媛を「檜隈大陵」に改装したという『日本書紀』の記述と
石棺が二つあることも一致することから、この古墳を第29代欽明天皇の
陵墓とする説が有力です。

現在欽明天皇陵は、約1.5km南東にある平田梅山古墳に治定されています。




五条野丸山古墳から東の方へ少し歩くと、丘の上にブルーシートが
かかっているのが見えてきます。
整備中の植山古墳です(3年後完了予定)。

6世紀後半~7世紀 国史跡
長方形墳(東西40m・南北30m)

第33代推古天皇とその息子・竹田皇子の墓といわれており、
石室が二つある双室墳です。

東石室が竹田皇子(6世紀後半)、西石室が推古天皇(7世紀前半)の
墓と推定されています。


整備中の為フェンスで囲われて近づけません;

植山古墳から五条野丸山古墳を望む



東側から見る 
左側の森は春日神社






現在推古天皇陵に治定されている古墳は大阪の山田高塚古墳。
後に改葬されたようです。
昨年考古学研究者の立入が許可され、石室が二つありそうだと
言われています。





植山古墳の東側の新興住宅地の横を通り、明日香村に入って
天理教の建物の横(裏?)に菖蒲池古墳があります。

この小さい看板を見落とさないで左へ入る ↑



7世紀中頃~後半 国史跡
方墳(1辺:30m)
右の覆屋の隙間から石室が見える


 


竜山石製 2基の石棺(手前と奥) 
建物をかたどった珍しい形(竜山石製)


430m真南に野口王墓古墳(天武・持統陵)があり、また藤原京中軸線の
南への延長線上にのるという。

かなり重要な地位の人のお墓ということでしょうか。




甘樫丘でお昼休憩です。



畝傍山を望む

耳成山を望む



甘樫丘の北側にはトイレや休憩所などがあります



豊浦寺跡下層遺跡(向原寺)

豊浦寺は、552(欽明13)年に百済の聖明王より送られた仏像を
貰い受けた蘇我稲目が「向原(むくはら)の家」に祀ったことが始まり
とされ、飛鳥寺と対をなす日本最初の尼寺とされます。

豊浦寺の講堂・金堂の下層から、豊浦宮の可能性が高い
大型の掘立柱建物の柱穴と石敷が見つかっています。

推古天皇は592年に豊浦宮で即位し、603年にここから北側の雷丘東方遺跡
辺りと思われる小墾田宮移り、628年に亡くなるまで政務を執りました。

小墾田宮に移った後、寺にされたのが豊浦寺とされています。

尼寺(蘇我稲目邸)→豊浦宮→豊浦寺ということでしょうか。




628年頃には伽藍がほぼ整っていたと思われる
発掘調査で金堂・講堂が見つかっているが塔は不明



飛鳥京跡の宮殿遺構と共通した石敷き遺構



講堂礎石




左(南)の建物の下に金堂基壇がある


向原寺のすぐ南側に、難波池(なんばいけといわれる所があります。

仏教が伝来した際に廃仏派の物部尾輿が仏像を投げ捨てた難波の堀は
大阪の難波ではなくここだという伝承があるそうです。
 
長野の善光寺の仏様の縁起ともつながる記録もあるそうです








今回のウォークの行程ではないですが、飛鳥寺へ向う途中にある
飛鳥水落遺跡




国史跡
漏刻(水時計)の遺跡

 
 
水時計装置と建物の跡





飛鳥寺(安居院)

蘇我馬子によって日本で最初に建てられたお寺。

塔を中心に北に中金堂、東西金堂が建ち、それを回廊で囲む
1塔3金堂式伽藍で、百済の影響が強いとされています。

創建時の軒平瓦は見つかっていません(豊浦寺も同様)。

御本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)(重文)は鞍作鳥(止利仏師)作と言わ
れていますが、修復を重ねている為どれくらい当初の姿をとどめているか
は論議が分かれています。

ただ竜山石製の台座は創建当時から動いていないとのこと。


596年に伽藍が整ったとされる
「飛鳥大仏」の台石は創建時の礎石とのこと





本堂前にある金堂礎石(3個)
飛鳥寺跡は国史跡
 


塔心礎跡
仏舎利と共に発掘された埋納品は後期古墳の副葬品と類似
(玉類・耳環・挂甲・馬具・鈴・刀子・雲母など)



西門



飛鳥寺西門跡
寺の西に「槻の木の広場」があった
入鹿の首塚
乙巳の変(645年)で暗殺された蘇我入鹿の首が飛んできた所と伝えられる五輪塔
西門を出てすぐ甘樫丘を背にある
 





小雨が降ってきたなか、15分程歩いて飛鳥資料館へ。
秋季特別展「飛鳥・藤原京への道」(12/1迄)を見学。








資料館を各自見学して解散です。

いつも詳しい解説をして、色々な質問にも丁寧に答えてくださる
近つ飛鳥博物館の学芸員さんには感謝でいっぱいです。
どうもありがとうございました。お疲れ様です~





より大きな地図で 飛鳥 を表示

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