2013年9月26日木曜日

明日香から高取へ

22日(日)は第52回鎮守の森を観にいこうかいで
「明日香から高取を巡る」に参加しました。

暑いほどの好天の一日


8時に桜井に一次集合した一行と、9時15分に
近鉄飛鳥駅で集合して出発。

棚田祭りがあるとか色々イベントもあったようで
飛鳥駅は大混雑でしたが、私達一行は駅の西側を
歩くのであまり人はいませんでした。


近鉄飛鳥駅は約30分に一本の発着(特急電車除く)




飛鳥駅から少し北へ歩いて線路を西へ越えるとすぐに
岩屋山古墳があります。



国史跡
7世紀代 方形墳(約54m)


当初の羨道はもっと長かったという
江戸時代には開封していたらしい



岩屋山古墳の石室は切石積みの大変美しい石室で、横穴式石室の基準となっています。





羨道(長さ:約12m 幅:1.9m)




奥壁
飛鳥で採れる模様入りの花崗岩



天井石 一枚石




漆喰で塗られていたらしい









出口の辺りは二段積

















墳丘の西半分程は削り取られている
 


墳丘から東の眺め
中央に鬼の雪隠が見える

















牽牛子塚(けんごしづか)古墳


岩屋山古墳から西へ10分程歩いたところに牽牛子塚古墳があります。
牽牛子とはアサガオのことで、八角形を意味します。
この古墳が古くから八角形墳という認識がなされていたということ
のようです。

八角形墳というのは皇族、特に終末期では天皇の墳墓の形です。

この古墳は、第37代斉明(第35代皇極)天皇と、その娘で第36代孝徳天皇の
皇后だった間人皇后の合葬墓とほぼ断定されていますが、宮内庁の治定する
斉明陵としては、ここより西にある車木ケンノウ塚古墳とされています。


牽牛子塚古墳東よりの遠景
高台にあり行く道すがら植山古墳も見えました



 

この古墳は2009年から2010年に発掘され、墳丘裾部には切石やバラスを
敷き詰め、墳丘部表面も凝灰岩で装飾していたと思われます。


30~40歳代前後の女性の歯が見つかっていますが、間人皇后のものと
思われます。





7世紀後半 八角形墳(対辺:約22m) 二段築成
夾紵棺片・七宝亀甲形座金具・ガラス玉等出土



国史跡
大正時代・1977(昭和52)年にも発掘調査
 

  



格子越しに刳り貫き式横口式石槨の中を覗ける


石槨 向かって左
長さ:約2m
石槨 向かって右
棺台(幅:約80cm)が削り出してある



天井部ドーム状 二重に漆喰塗り
二上山産凝灰角礫岩製 推定重量80t





石槨入口は向こう(南)側
左(東)側の墳丘下に越塚御門古墳(埋め戻されている)




















越塚御門(こしつかごもん)古墳


牽牛子塚古墳の東南部に埋もれていたのが、
2010年の発掘調査で発見されました。


『続日本書紀』667年2月に、斉明天皇と間人皇女を
小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬し、同日に
陵の前の墓に皇孫大田皇女を葬ったことが記されています。


ぴったり・・・文献と発掘の成果が一致する極めて稀な例で、
大田皇女墓でほぼ間違いないようです。





 
7世紀後半 墳丘規模不明
石英閃緑岩製組合せの刳り貫き式横口式石槨(長さ:2.4m)
石槨前面部に墓道あり(長さ4m以上 幅:約1m)

 


大田皇女は天智天皇の娘で、天武天皇の妃となって大伯皇女と
大津皇子を産み、若くして亡くなったようです。

実の妹で同じく天武天皇の妃となって草壁皇子を産んだ、後の
持統天皇にとって、この姉の死がなければ皇后になることは
できず、ひいては天皇になることもなかったはずです。

大津皇子は謀反の疑いで刑死し、姉の大伯皇女の挽歌が
『万葉集』に残ります。






牽牛子塚古墳からさらに丘陵の奥へ歩き、益田岩船へ行きます。




益田岩船までの道のりはシダが生い茂って道もよく見えない・・・
一人や雨の時などはお薦めできません;;






益田岩船




山の中を歩いて行くと突如現われる



花崗岩製
東西11m 南北8m 高さ4.7m(北側面)



益田岩船については謎の石造物として諸説ありましたが
横口式石槨の作りかけではないかと言われています。

穴が二つあるので、斉明天皇と間人皇后の合葬墓である
牽牛子塚古墳の石槨を作りかけたものの、ひび割れなどで
断念して放置されたものではというお話がありましたが、
牽牛子塚古墳が発掘された今はとても説得力があります。



切り出す苦闘の痕跡が



竹藪に覆われているが岩船山の頂上
昔は見晴らしの良い所だったとのこと



来た道を戻り、南下していきます。

道すがらボールを拾って・・・?
ではなく、何とキノコ!


オニフスベ
食べれるらしいですが美味しくはないらしい・・・

やっぱりお彼岸



式内社 櫛玉命神社





マルコ山古墳



集落の間の見晴らしの良い高台にぽこっとあります



国史跡
7世紀末~8世紀初 六角形墳(対角辺24m) 二段築成
凝灰岩切石製横口式石槨 漆喰塗



墳頂より 見晴らしが良いです
お昼休憩はここで きれいなトイレもあります


さらに南下して・・・
集落の中から高台へ春日神社の階段を上がって行きますと
春日神社の境内に束明神塚古墳があります。



    右の草の緑の所が束明神古墳  ↑




春日神社拝殿


















草壁皇子の本当の墓というのが定説です。

草壁皇子は天武天皇と持統天皇の子で、皇太子のまま
28歳で亡くなっています。

7世紀後半~末 八角形墳(対角辺:約30m)
凝灰岩製横口式石槨
青年期~壮年期の歯が見つかっている


草壁皇子の墓という伝承はずっとあったようなのですが
明治に天皇陵の治定が行われた際に、陵墓とされれば
村を移住させられるという心配をした村人により上部が
破壊され、もう少し南に岡宮天皇陵が治定されたという;



















以前に撮った橿原考古学研究所の敷地内にある束明神古墳の復元石槨





 
 






岡宮天皇陵は束明神古墳から少し南へ行った所にあります。


宮内庁が草壁皇子の陵墓として管理しています。

草壁皇子は皇太子で死去していますが、息子が文武天皇、
妃が元明天皇、娘が元正天皇となって孫の聖武天皇と続く為
草壁皇子の血筋というものが尊ばれ、758年に岡宮御宇天皇と
追号されます。



明日香の岡に草壁皇子の宮があった為岡宮となったという



素戔嗚神社の横にあります



岡宮天皇 真弓丘陵

 


岡宮天皇陵の鳥居



古道 紀路(高野海道)


20分程歩いて高取町役場の方へ向かいます。




天誅組鳥ヶ峰古戦場

天誅組という名前は漠然と知っていましたが
なかなかに悲しい・・・

天誅(忠)組は、公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団で
1863(文久3)年、孝明天皇の大和行幸の発表(8/13)を受けて挙兵(8/17)したはずが
政変(8/18)によって一転逆賊となって幕府軍の追討を受けて壊滅し、政変を知らずに
集められた十津川郷士約千人は純粋な勤皇精神を利用されただけとなってしまった・・・


高取中央公園







 




 


丘の上の茶色の建物が高取町役場
近鉄壺阪山駅は右手(東)へ徒歩約5分


奈良県森林技術センターで色々お話を伺って、
30分に一本の電車の時間が迫っている為大急ぎで解散と
なりました。

暑い一日でしたが、かねがね行きたかった所に沢山行けて
嬉しい一日でした。
ありがとうございました!



より大きな地図で 明日香・高取 を表示

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